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フラット革命

かなり面白かった。本を読むのが嫌いな人もせめて第4章「公共性をだれが保証するのか」だけでも読んでほしい。

以下、抜粋と感想。

ネットの世界には権威は存在しない。権威は消滅し、どれだけ他人から注目を集めることができるかということだけがすべての評価基準となり、さまざまな言論活動が展開されていく。となると、その評価基準がある一定の高さのリテラシーを伴うものでなければ、衆愚化してしまう可能性は十分にある。

インターネットの世界は、マスコミにフィルタリングされずに世の中をダイレクトに、生々しく見ることのできる世界である。ノイズは大量にあふれているが、しかしそのノイズはわれわれの世界の生々しいリアルの実態を表現したものにすぎない。その膨大なリアルの中から、リアリティを失わずに、本質をつかみあげることができるのが、インターネットによってフラット化された世界の本質である。

ネットの世界にもアルファブロガーと呼ばれる権威は存在しているとは思うが、既存のマスコミほどではないという意味では同意。読者側が一定の高さのリテラシーを求められるのは、以前にも述べたとおり、完全に同意。

こうした人々の議論のやりとり、高校生や一般の人がジャーナリストを批判し、その批判にそのジャーナリストが返答するというそうした構図そのものが、実はそれこそが、すなわち公共性を保証するしくみをつくりだしているのではないだろうか?

そうした一連の情報のやりとりの過程そのものが、社会を構成する〈わたし〉たち全員の前に、可視化されているということ。

(中略)

そうしたこと自体がそのまま、実は〈わたし〉たちの集合体全体の〈公〉となっているのである。

つまり、ブログでいえば、コメントやトラックバックなどで、誰もが反論可能であり、またそれに更なる反論が可能である。そうした議論のやりとりが可視化されることで、ネット社会の公共性が保たれるのではないかと著者は言っており、ある程度その通りだと思う。

ただ、コメントの入力やトラックバックを受け付けていないブログも結構ある。この場合、異論・反論を唱えたくても(あるいは賛意を唱えたくても)、そのブログ上で見える形ではそれが出来ない。つまり、著者の言う公共性の担保が無くなってしまう。もちろん、別の場所でそのブログのリンクを張って、自身の主張を展開することは可能だが、元のブログの読者がそれを見てくれる可能性はおそらく低い。

難しい問題ですね。

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著者:佐々木 俊尚
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